2016年03月01日

土管とそれを流れるコンテンツの分離

土管とコンテンツの分離が流行っています。

このエントリを書いている直前では、電力自由化により、送電と売電が分離されました。電気を作っているところは今までと変わりありませんが、電気の売り先が○○電力という会社から、直接のユーザーに変わりました。便利かどうかや効率的かどうかはさておき、世の中の重要な流れであることは間違いないと思います。

テレビ局や新聞社も公共性の高い電波を使っているが、官公庁の指導下にあり自由な放送ができないので、こちらも放送の内容と、放送を実施する人たちを分離したらどうでしょうか。放送したい人は放映会社(土管)に時間当たりのお金を支払って持ち込んだコンテンツを放送してもらうのです。丁度映画館と配給会社の関係のようなものです。

そうすることで、公共性の高い電波を独占するテレビ局やラジオ局を国民みんなが利用できるようになるのです。ついでに官公庁の規制からも自由になれて、権力の介在をゆるしません。思いつきにしてはいいアイデアのような気がします。

2015年07月28日

責任が嫌いな日本人

日本人はとにかく責任を嫌う。でも権力や権利は欲しがる。外から見ていれば「なんて子どもなんだろう」と思うのは間違いのない行動なのに、自分がやるときは平気でやる。

その具体例をひとつあげて見よう。

日本は戦後、先進国の枠組に入りながら戦争を避けてきた。平和に暮らしたかったといえばその通りなのだが、この状況を日本人は「平和を守っている」と表現する。

さてこの「平和を守っている」とは、どこの平和のことなのだろうか。第二次世界大戦が終わってからも戦争は尽きたことがない。あまつさえ、日本は朝鮮戦争やベトナム戦争で好景気を甘受している。戦争に助力した後方基地であったことは揺るぎようのない事実だ。

第四次中東戦争でもオイルショックの原因になるにも関わらず、日本は積極的な介入を行っていない。あの北朝鮮ですら介入を行ったのにである。

つまり、日本は戦争が起こっても見て見ぬふりをずっと続けてきたのだ。これは一番最初に書いた通り、責任を負わない「子ども」のすることだ。だから日本はその規模に見合った地位に達することができない。敗戦(戦争ではなく)のトラウマで、必要な責任を負うことを極端に避けてきたからだ。

敗戦のトラウマとは、第二次世界大戦だけを戦争として反省ばかりしていることを指す。戦争を反省するのなら、(勝利した日露戦争や第一次世界大戦も含めて)すべての戦争を反省しなければならない。だが、戦争を深く考えない子どものマインドしかない人達は考えることを避けている。

今、日本は少しずつ変わろうとしている。敗戦のトラウマを乗り越え、すべての戦争を深く考えようと歩みを進めた。今後、日本は常任理事国入りを目指して活動することになるだろう。それが棚ぼた式で手に入れた拒否権を持つ中国共産党に対向し、アジアのリーダーになるために必要な過程だからだ。

2015年06月23日

議論を勘違いする人たち

議論を語る前に「良い教育」について考えてみよう。理想的な良い教育を受けた人を想定する。その人はとても頭がいいだろうし、宗教的な倫理観も持ち合わせているだろうし、利己的ではなく利他的な行動を取ることが多いだろう。

それらのすべては「敵を増やさず、味方を増やす」ために行われる。人間が社会的動物である以上、自分の所属するコミュニティに多くの人間を引き入れてコミュニティの寿命を出来るだけ長くすることが目的だからだ。

(本論とずれるがコミュニティの寿命を長くすることで知財・財産の継承をスムーズにしたり、傑出した人物を輩出する可能性を高くしたり、色々な面でメリットを得ることができる)

つまり「良い教育」とは「敵を増やさず、味方を増やす」行動様式を身につけさせることだと思う。

このことを踏まえて「良い教育」を受けた者同士の議論を考える。最初は「正」と「反」の意見を持つが最後には「合」という状態に至り新しい「正」を形成する。

もう少し砕けて書くと、「議論した結果、味方が増える」のが理想と言える。

そこで巷で話題の「論破」を考えてみると、口論の結果、まず「合」の状態に至らない。次に敵が増える。つまり、「論破」というのは議論の終了の宣言であり、議論が新しい結論に至らず途中で終了してしまうことを示している。つまり、無駄な議論をした上に新しい敵を作ってしまっているのだ。

ちなみに論拠が曖昧な場合に使われる「論破」は、「論外」であり、議論するまでもないことである。

結論有りきの議論というのは「お芝居」であり、シナリオを読み上げているに過ぎない。

論破、論外、結論有りきというのは、時間の無駄ということである。

どちらかの立場を優位にするために行われる話し合いは「交渉」と呼ぶし、相手の意図を曲解したり、意図の伝え方を攻撃するのは議論とは呼ばない。

「良い教育」を受けていない人たちの議論は、新しい結論に至るという目的を忘れ、人格を攻撃したり、相手の意図を曲解して揚げ足を取ったり、自分の意見を買えず相手に飲ませようとする(そんなことが出来るわけないのに)

それでいて相手が議論をやめると「勝った!」と喜ぶ。そんな議論に勝者は誰も居ない。議論の前と後で変化があったのはお互いの間にできた理解を妨げる深い溝である。

2015年06月22日

少数派の権利を守る正義を勘違いする人たち

「父親がいない家庭に配慮して、『父の日』のイベントを廃止しよう」というのは、母親しかいない家庭に配慮した美談だと捉えがちだが、どう考えても多数派の権利を侵害している愚かな行為である。

沖縄基地移転の問題と同じ構造に思えるかもしれないが、沖縄基地移転では多数派の権利は侵害されていない。これが本土に移すとなったら初めて多数派の権利侵害が起こる。

さらに上記の例では少数派の権利すら侵害されていない。少数派に配慮した結果、多数派の権利侵害が起こることはリベラル的には正しくない。だが、この論理を正しいとしている自称リベラルが多いのも確かである。

リベラルは他人の権利を侵害しない限り自由というのが原則で、自由の前に他人の権利を侵害してはいけないのである。

また戦争が発生した場合のことを考えるとリベラルは戦争を政府に頼らず遂行する義務が発生する。それがリベラル(自由主義)の持つ責務である。自由を守るためにはだれでもない自分が戦うのだ。

自称リベラルの人たちは都合の良い所だけ「リベラル」を主張する。そして、それがあたかも正しいことであるかのように触れ回る。

責任を放棄した自由は主義でも主張でもなんでもなく、単なる「わがまま」である。

大人の「わがまま」ほど格好悪いものはない。

2015年06月05日

左翼の落とし子

現代的な左翼の主張としては以下の様なものだろう。

・反戦
・反原発
・社会福祉拡充
・自然環境保護


だが、これらの論点は左翼の考えではない。左翼原理主義の僕としては、次の2点に基づかない政策はすべて別の(左翼思想ではない)考え方から来ていると思っている。

■左翼原理主義の2点

・労働の対価としての報酬

・生産手段の共有


以上の2点以外の話はすべて宗教的な倫理観に基づいたものか、もしくは特定の集団に対する利益誘導とかんがえられる。
故に、現代的な左翼は、特定の集団に利益誘導を行う威力団体だと考えて問題ない。

2014年05月01日

パックンと池上さんの小話

パックン:今の池上さんの話で、僕のおばあちゃんのエピソードを思い出しました。おばあちゃん、すごくしゃべりたがりなんです。あるとき、おばあちゃんを乗せて車で出かけて、途中でガソリンスタンドへ寄って、僕が給油をしている間に、おばあちゃんが会計をしにいきました。ところが、給油が終わっても、なかなか戻ってこない。

池上:どうしたんですか?

パックン:心配に思って見にいったら、レジの人とおしゃべりをしているんです。「何してるの、早く行こうよ」と僕が声をかけると、「私のせいじゃないのよ、この人がずっと私の話を聞いてくれるから」。レジの人が聞き上手だったんですね。

池上:おばあちゃん、ガソリンスタンドで「油を売っていた」というわけですね。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20140421/263228/

2014年04月16日

TOKYO HUBの紹介記事を読んで思うこと

東大卒の人がTOKYO HUBというコワーキングスペースを立ち上げたという記事を読んで、「HUBで人脈ができる」というポイントに魅力を感じた。

だがよくよく考えてみると、私は人脈に何を期待しているのだろうか。
自分が持っていないスキルを期待しているのだろうか。
それとも強烈なカリスマ性を発揮して、私をやる気にさせる人を求めているのだろうか。
お金を出してくれるエンジェルと知り合うことを期待しているのだろうか。

いずれも違うと思う。

私は起業家を目指しているが、起業するにあたって自分ができないスキルを他人に期待するのは間違っていると考えている。
なぜなら誰かが居ないと進まないなら起業するリスクが高過ぎるからだ。
特にレアなスキルであればあるほどリスクは高まっていく。

一例を上げると、「キャラクター」をデザインしてくれる人がいて、その人がデザインしたキャラクターに依存してしまった場合、そのキャラクターを描ける人がいなくなると、軌道修正が必要になる。キャラクターが独特なタッチで描かれていたら目も当てられない。
別の例では、特殊な金属加工技術を持った職人に依存した商品を企画した場合、職人が交通事故で死んでしまったら途中で頓挫することは間違いない。

当然、これらのリスクは避けられないものと避けられるものがある。
上の例で言えば、前者は確実に避けられる。キャラクターは起業段階で取り替えられるものにしておくことは可能だからだ。
後者は避けられる状況にするまで時間がかかる。つまり起業段階では避けられないリスクに分類される。

こういうことを考えると、私がHUBに求めている人脈というのは起業に必要な何か(スキルやお金)ではなく、起業を加速させる何かということになる。

例えば、私は日本語圏以外でビジネスをするノウハウがない。だからマーケットが必然的に小さくなる。するとスタートダッシュを決めるための条件が厳しくなる。だが、日本語圏以外のビジネスを行うノウハウを持った人とHUBで知りあえば、マーケットが広くなる。スタートダッシュを決める条件が緩和される。起業したときのリスクがかなり低く抑えることが可能だ。

人脈がないと起業できないと考えてしまいがちだけど、人脈に頼った起業はリスクが高すぎる。
そんなことを再確認した記事でした。