2015年06月23日

議論を勘違いする人たち

議論を語る前に「良い教育」について考えてみよう。理想的な良い教育を受けた人を想定する。その人はとても頭がいいだろうし、宗教的な倫理観も持ち合わせているだろうし、利己的ではなく利他的な行動を取ることが多いだろう。

それらのすべては「敵を増やさず、味方を増やす」ために行われる。人間が社会的動物である以上、自分の所属するコミュニティに多くの人間を引き入れてコミュニティの寿命を出来るだけ長くすることが目的だからだ。

(本論とずれるがコミュニティの寿命を長くすることで知財・財産の継承をスムーズにしたり、傑出した人物を輩出する可能性を高くしたり、色々な面でメリットを得ることができる)

つまり「良い教育」とは「敵を増やさず、味方を増やす」行動様式を身につけさせることだと思う。

このことを踏まえて「良い教育」を受けた者同士の議論を考える。最初は「正」と「反」の意見を持つが最後には「合」という状態に至り新しい「正」を形成する。

もう少し砕けて書くと、「議論した結果、味方が増える」のが理想と言える。

そこで巷で話題の「論破」を考えてみると、口論の結果、まず「合」の状態に至らない。次に敵が増える。つまり、「論破」というのは議論の終了の宣言であり、議論が新しい結論に至らず途中で終了してしまうことを示している。つまり、無駄な議論をした上に新しい敵を作ってしまっているのだ。

ちなみに論拠が曖昧な場合に使われる「論破」は、「論外」であり、議論するまでもないことである。

結論有りきの議論というのは「お芝居」であり、シナリオを読み上げているに過ぎない。

論破、論外、結論有りきというのは、時間の無駄ということである。

どちらかの立場を優位にするために行われる話し合いは「交渉」と呼ぶし、相手の意図を曲解したり、意図の伝え方を攻撃するのは議論とは呼ばない。

「良い教育」を受けていない人たちの議論は、新しい結論に至るという目的を忘れ、人格を攻撃したり、相手の意図を曲解して揚げ足を取ったり、自分の意見を買えず相手に飲ませようとする(そんなことが出来るわけないのに)

それでいて相手が議論をやめると「勝った!」と喜ぶ。そんな議論に勝者は誰も居ない。議論の前と後で変化があったのはお互いの間にできた理解を妨げる深い溝である。

2015年06月22日

少数派の権利を守る正義を勘違いする人たち

「父親がいない家庭に配慮して、『父の日』のイベントを廃止しよう」というのは、母親しかいない家庭に配慮した美談だと捉えがちだが、どう考えても多数派の権利を侵害している愚かな行為である。

沖縄基地移転の問題と同じ構造に思えるかもしれないが、沖縄基地移転では多数派の権利は侵害されていない。これが本土に移すとなったら初めて多数派の権利侵害が起こる。

さらに上記の例では少数派の権利すら侵害されていない。少数派に配慮した結果、多数派の権利侵害が起こることはリベラル的には正しくない。だが、この論理を正しいとしている自称リベラルが多いのも確かである。

リベラルは他人の権利を侵害しない限り自由というのが原則で、自由の前に他人の権利を侵害してはいけないのである。

また戦争が発生した場合のことを考えるとリベラルは戦争を政府に頼らず遂行する義務が発生する。それがリベラル(自由主義)の持つ責務である。自由を守るためにはだれでもない自分が戦うのだ。

自称リベラルの人たちは都合の良い所だけ「リベラル」を主張する。そして、それがあたかも正しいことであるかのように触れ回る。

責任を放棄した自由は主義でも主張でもなんでもなく、単なる「わがまま」である。

大人の「わがまま」ほど格好悪いものはない。

2015年06月05日

左翼の落とし子

現代的な左翼の主張としては以下の様なものだろう。

・反戦
・反原発
・社会福祉拡充
・自然環境保護


だが、これらの論点は左翼の考えではない。左翼原理主義の僕としては、次の2点に基づかない政策はすべて別の(左翼思想ではない)考え方から来ていると思っている。

■左翼原理主義の2点

・労働の対価としての報酬

・生産手段の共有


以上の2点以外の話はすべて宗教的な倫理観に基づいたものか、もしくは特定の集団に対する利益誘導とかんがえられる。
故に、現代的な左翼は、特定の集団に利益誘導を行う威力団体だと考えて問題ない。